ミラクル・メッツ
1962年に誕生したニューヨーク・メッツ。1957年にニューヨーク・ジャイアンツとブルックリン・ドジャースが西海岸に移転してしまったあと、NY市民はあまりに強過ぎて今一つ人気のなかったヤンキースとは別のチームの出現を望んでいた。しかしメッツは創設時からヤンキースとは対照的にあまりに弱く、そして憎めないチームだった。62年、最初のシーズンはいきなり開幕9連敗。結局40勝120敗という散々な成績で最下位。しかし本拠地ポロ・グラウンドに人は集まり、100万人以上の観客を集めた。そしてその後も毎年のように最下位争いを演じた。
しかし1969年、異変が起きた。それまでナショナル・リーグは10球団で構成されていたが、この年から両リーグとも12球団となり、6球団ずつに地区分けしたのだ。おかげでメッツのファンは喜んだ。それまでの7年間、殆ど10位、良くても9位という成績だったが、これで最悪でも6位にはなれるからだった。さらにこの年からストライク・ゾーンが変更され、1963年以前のようにわきの下から膝までに戻された。さらにマウンドが低くなり、バッター有利になったのだ。その事がメッツにとって幸いだったのかは分からないが、メッツは夏場に入ってから快進撃を開始した。
Amazing Metsと呼ばれたチームの中心はなんと言っても投手陣。24歳でエースにのし上がったトム・シーヴァー(25勝7敗、防御率2.21でサイヤング賞)、左腕のジェリー・クーズマン(17勝9敗)、ルーキーのゲーリー・ジェントリー、そしてまだ若干22歳だったノーラン・ライアンらがいたのだ。この年100勝62敗の成績でナショナル・リーグ・イーストを制したメッツは初のプレーオフでアトランタを下し、ワールドシリーズへと進んだ。
名門ボルティモア・アリオールズとのワールドシリーズ第1戦。エース、シーヴァーを送りこみながら4-1で落としてしまう。しかし第2戦にクーズマンが2安打に抑える好投で勝つと勢いに乗ったメッツはオリオールズに4連勝し、ワールドシリーズも制した。ミラクル・メッツが起こした、まさに奇跡だった。
このメッツは1974年に来日し、後楽園球場などで日本チームと対戦した。現ヤンキース監督のジョー・トーレ、後に大洋に入団するミャーン、エースのシーヴァーらを含めたミラクル・メッツの来日は日本でも話題になり、当時小学生だった僕も後楽園に観に行った。試合前に駐車場付近でジェリー・クーズマンを見つけ、サインをもらった思い出がある。しかし・・・・あれが本当にクーズマンだったか、今では少し疑問だ・・・・
ノーラン・ライアン
通算324勝。ノーヒットノーラン7回(91年には44歳3ヶ月で達成)、通算奪三振5714は金字塔だ。73年、カリフォルニア・エクスプレスという異名を取ったエンジェルス時代には年間奪三振383というMLB記録を打ちたてる。全盛時代その速球は時速100マイル(約162キロ)を越えていたが、引退した1993年、46歳の時でも時速97マイル(約155キロ)を出していた。独自のウェイト・トレーニング理論を持ち、27年間投げ続けた。その著書「ピッチャーズ・バイブル」は松坂も参考にしたと言う。
トム・シーヴァー
最多勝3回、最優秀防御率3回、奪三振王5回、そしてサイヤング賞3回。69年にはミラクル・メッツを、そして77年にはビッグレッドマシーンをワールド・チャンピオンの座に導いた。ライジング・ファストボールを投げ、テリフィック・トムの異名を取った。74年はメッツで、78年にはレッズの一員として日米野球に参加した。
そのシーヴァーが大記録を作ったのが1970年の4月22日。シェイスタディアムでのパドレス戦、先発したシーヴァーは6回、最後のバッターを
この日10個目の三振で仕留めると、7回は3者三振。さらに8回初めの二人を三振に仕留めたところで球場内のアナウンスがノーラン・ライアンの達成した15奪三振のチーム記録に並んだ、と伝える。さらに次のバッターを三振に退けると、今度はジョニー・ポドレスの作ったリーグ記録への挑戦が待っていた。シェイスタディアムの二万の観衆の視線がシーヴァーの右腕に集まる中、最終回も3者三振でなんと10連続奪三振で一試合19奪三振の新記録を作ったのだった。
フィーリックス・ミャーン
この選手は1969年のミラクル・メッツのメンバーではない。その年はアトランタに在籍し、162試合に出場、.267の成績を残している。なぜここで紹介するかと言うと、74年にメッツのメンバーとして来日したからである。ミャーンがメッツに移ってきたのは73年だ。プエルトリコ出身で背も低く(1メートル78センチ)、全くパンチ力はなかったが、アトランタ時代の1970年に.310を打った。3割をマークしたのはこの1度だけだったが。現役12年間の通算打率は.279。そして引退後、彼は大洋ホエールズに入団し、見事首位打者を獲得する。ニックネームは
THE CAT。これは彼の名前がミャーンと猫の声のようだから、と紹介されていたが、実はそれもあるけど「FELIX THE CAT(黒い痩せた猫のマンガ)」からとったものなのだ。